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2009年2月28日 (土)

厳冬、三国峠での長岡藩士遭難実録(1)

冬の雪山の遭難で大規模な事件と聞くと、明治35年1月に青森県の八甲田山で199名の死者を出した雪中行軍のことを連想される方も多いと思います。これは小説にもなり(八甲田死の彷徨・新田次郎)、また1977年に映画化もされ、その年の興行収入第1位となりました。

遭難した青森第5連隊の神田大尉(モデルは神成文吉大尉)に北大路欣也、弘前第31連隊の徳島大尉(モデルは福島泰蔵大尉)に高倉健という配役でした。しかしこの遭難は、昭和5年に熊ノ沢の案内人苫米地吉重(とまべちよししげ)が「八甲田山麓雪中行軍秘話」を発表するまで、国民の多くはその真相を知らされていませんでした。まさに冬山の恐ろしさを感じさせる出来事と申せましょう。

越後長岡藩の家中にも規模こそ違え、雪山の魔の手が襲いかかりました。時代は8代将軍徳川吉宗の頃です。名奉行と言われた大岡越前守忠相(ただすけ)が、町奉行から寺社奉行へと昇進し、ついに三河国に四千八十石をもらって大名に列せられた元文5年(1740)にこの遭難事故は発生しました。

この年の1月末に、江戸を出発した十数名の一行は、三国街道を利根川沿いに北上し、上野国の宿場を通って行きました。布施から須川(すかわ)宿、そして相俣(あいまた)へと入り、猿ヶ京の関所を通過するのですが、そこに横たわる現在の赤谷湖(あかやこ)はありませんでした。湖底の辺りを流れていた赤谷川の渓谷には、ぬるま湯が湧き出る生井(なまい)という集落があり、そこから生井橋を渡って急傾斜の坂を登ると関所となります。猿ヶ京関所は「猿ヶ京ニ御関所立事」によれば、創設されたのは寛永8年(1631)4月頃であるとのこと。その猿ヶ京を過ぎると上州側13宿の最終駅、永井宿に入ります。ここは江戸時代に越後米の公認市場として栄えた三国峠直下にある宿場町で平地の少ないところです。もとの猿ヶ京小学校永井分校の跡地には「永井宿郷土館」があって、大名の高札や武具など多くの資料が展示されています。この永井宿を出るといよいよ三国峠で、越後側に入るわけですが、越後側では浅貝(あさかい)→ニ居(ふたい)→三俣(みつまた)→湯沢→関→塩沢→六日町→五日町→浦佐→堀之内→川口→妙見を通って長岡となります。(私、亀川純一はこの三国街道を各宿場をとおって十数回往復してきました)

では、この十数名の一行とはどのような人たちだったのでしょう。実は江戸での裁きで罪人とされた長岡藩内の男2人が、唐丸籠に乗せられて前後を長岡藩士足軽と人足とが固めて佐渡送りする途中だったのです。三国街道の長岡以北は、与板→地蔵堂→中島→渡部と継いで寺泊に到達し、寺泊から乗船して佐渡へと向かうのでした。

三国街道や北国街道については多くの文献もあり研究者も多くおられますが、長岡藩に関係したもので最も古く詳しいものは、亀川純一が所蔵していた「高田城御請取記(一)~(四)」ではないでしょうか。この遭難の時よりも約80年も前の記録で、計450頁にもなるものです。延宝9年(1661)の第3代長岡藩主牧野忠辰(ただとき)の一行が江戸から長岡、長岡から高田へと向かう間の行列や宿場の様子、そして中には精神衰弱に陥って自害した侍のことなどが実に克明に記されていて、同じ高田城受取りの記録がある村上藩榊原家のものよりも枚数は上回ります。

さてその三国街道の永井宿を出発した佐渡送りの一行が、いよいよ三国峠にさしかかる手前の「てうすケ谷」に来たとき、突然の表層雪崩(越後の言葉では雪なて、上州ではアイと呼ぶ)が起き、籠の前後にいた長岡藩士9人と倉股の者2人、吹路の人足1人の計12人が、あっという間に巻き込まれて谷底に消えていきました。

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